Dear Angel 〜６月のエメ
ロード〜
低く、遠く、意識の奥底から聞こえてくる歌声の ように。
やさしい雨の音に意識が少しづつ覚醒してゆく。
カーテンの隙間からこぼれる朝の光。
雨だから強くはない…むしろ弱々しい光なのだが、
私にはなにものにも代えがたい、まばゆい光にも見え る。
なぜ、ここにこうしているのか。
あのときの心も行動も、自分でもうまく説明はできな い。
あのまま、消えるつもりだったのだ…愛しい私の天使の ために。
彼女が私にくれたもの。
それは小さな、本当にちいさなぬくもりだった。
この、よじれてひきつれた唇にふれた暖かなぬくもり。
それはこの身を…心をも凍てつかせていた怒りや苦しみを瞬時に溶かし
そして新たな哀しみをも与えてくれた。
得た瞬間から永久に失うことがわかっていた。
癒された瞬間から始まる激しい渇き。
だからといって、誰を責めることができるだろう。
無理とわかって求めたのは私なのだ。
それでも彼女は、私に精一杯の想いを伝えてくれた。
ならば…私もそれに応えるしかあるまい。
つかの間、私は夢を見ていたのだ…「クリスティー ヌ」という名の美しい夢を。
ならば、その夢を見続けてなにが悪いというのだろう。
今まで見ていた夢は醒めてしまったが、次は醒めないようにすればいいだけのこと。
私はためらわず、また夢の中へ入っていくつもりだった。
そんな最中（さなか）に飛び込んできた、ひとりの少女。
私の天使とは誰よりも違い、誰よりも近くにいたメグ・ ジリィ。
彼女の小さな手にひっぱたかれ、そして手をとられて。
…今、私はここにいる。
フロックコートに白い山羊皮でこしらえたマスク。
この素顔を、ふたりともさほど気にしてないのはよくわ かる。
しかし、どうしても私自身の気持ちが落ち着かなくて、 衣服を身に着けるのが
当たり前なようにマスクをつけることをやめることはで きなかった。
ほぼ時間通りに食堂兼居間へ向かうと、マダムとメグがすでに食事の準備をしている。
「おはよう、おじさま」
私の姿を認めたメグが、陽気にさえずる小鳥のように 挨拶をする。
いつからそう呼ぶようになったのか…私の名も知らない 彼女としては
こう呼ばざるを得ず…まぁ妥当と言えば妥当だろう。
彼女から見れば「父」と言ってもいい年なのだ。
マダムも、こちらを見てかすかに微笑むとキッチンへと 消えていく。
食事が終わると、普段なら片付けもそこそこにマダムとメグはオペラ座へと出かけてゆく。
私はといえば、特にすることもなく日がな１日をすご し、時に作曲に没頭してはマダムを通じて
匿名でオペラ座へと持ち込んでもらい、幾ばくかの報酬 を手に入れていた。
私という厄介者が増えたことで彼女たちに生じている負 担を、少しでも軽くできれば…という
思いからだったが予想外に曲は好評で、自身の身の回り のものも多少補えるほどの収入となっていた。
マダムは自分の部屋へ姿を消したというのに、のんびりとしていつまでも身支度を
はじめようとしないメグに思わず声をかける。
「どうした…どこか、身体の具合でも悪いのかね？」
メグは丸っこい瞳を一瞬さらに丸くしたが、次の瞬間おかしそうに目を細めて答えた。
「やだっ、やっぱり聞いてなかったのね。
曲を仕上げているときはいつも少し上の空だから仕方 ないとは思ってたけど。
今日はレッスンも舞台もお休みよ？」
…そういえばそんなことを言っていたような気もする。
「マダムは？」
「ママは、他の先生がたと次の公演の配役の相談で出かけていったの。
いつもよりは早く戻ってくると思うけど」
次の公演はバレエが成功の要を握っている。
マダムにとっては開幕までいつも以上に忙しい毎日になるに違いない。
部屋に戻り、しばらく本を読みふける。
どれ位経っただろうか、ふいにノックの音とともにドアが勢いよく開き
メグが顔をのぞかせる…それではノックの意味などあまりなかろうに。
「今日はお暇かしら？」
「…そうだね、頼まれていた曲は仕上がったし、これといって急ぎの用もないが？」
その答えを予想していたかのように、私の顔を上目遣い にじーっと見る。
…マダムへ何かをおねだりするときの彼女の癖だ。
「わたし、今日はなんの用事も作ってないの。
もしよかったら、お願いがあるのだけど…」
思わず、驚いたような気の抜けたような表情…彼女に言わせると
「鳩がもらおうとした豆をいきなりぶつけられたようなきょとんとした顔」
だと言うのだが…いったいどんな表情だというのや ら。
「あのね、この前の夕食のあとのお茶のとき、ペルシャにいたって少し話してくれたでしょ？
わたし、フランスから出たこと一度もないから…聞きたいの、異国のお話」
それは些細なことだった。
夕食後のお茶の時間、たわいのない話の中で異国の音楽についての話題が出たとき。
ペルシャでの音楽や暮らしの話をしたときの彼女の表情・・・そういえば、クリスティーヌにもよく
北欧の風土やそこに伝わる不思議な伝説の話をねだっていたような気がする。
じぃぃぃっとまるで音がしそうなほどに凝視され る…これはマダムでなくてもたまらない。
仕方がないか。
「今日は姫君のためだけに語らせていただくとしよう」
私がそうあっさりと承諾するとは思わなかったのだろう、
顔を輝かせると、うれしそうにキッチンからお茶とビス キュイの皿を乗せたトレイを持ってきて、
私が座るソファの傍らにクッションを２・３放り出す と、おもむろに座り込んだ。
いそいそとお茶をいれるとはい、とこちらにも差し出す。
あんまり楽しそうなので、こちらまで思わずおかしく なってきてしまう。
マザンダランの薔薇の時。
それは豪奢でいながら、まるで砕かれたガラスの上を裸足で歩いていくようなペルシャでの日々。
私にとっては懐かしむようなものはあまりないが…モザ イク模様にタイルが敷き詰められた
壁にふりそそぐ日差しや暑く乾いた風。
特に、キリスト教圏とはまったく違う、イスラムの風習や後宮の女性たちの生活、
きらびやかな衣装とその生活…その裏にひそむどす黒い 陰謀や女ならではのあざとい策略は
とても語れたものではないが。
エキゾチックな容貌の美姫たちが、柔らかな膝の上にかき抱いた楽器を爪弾きシャーの前で歌う様や
挑発的なくらいに艶っぽく踊る様には、その振りの細か なところまで語れるだけ語ってくれるようせがんだのは
さすがダンサーといったところだろうか。
夜空の星を再現したからくりを作ったといえば歓声をあげ、
私のことを快く思っていなかった宰相とその一派を、 ちょっとした手品を使ってからかってやったくだりでは笑い転げ。
そして、玉座の間に埋め込まれたありとあらゆる宝石が、虹色にきらめきながら光をはじく様子を話していたとき。
話を少しでも聞き漏らすまいとしていたのか、いつのまにか彼女は私の膝元にまで
近寄って、まぶしいものでも見上げるように私を見上げ ていた。
大きく、でも夢見るようにうっとりと開かれた彼女の 瞳。
外は相変わらず柔らかな雨の音が続いている。
両の眼は…やさしい雨にうたれ、ますます鮮やかに緑を 濃くする碧の森のようで。
思わず黙り込んでしまった私を見て、不思議そうに首を かしげる。
「…いくら相手が年寄りだからって、淑女がそんなに穴が開くように異性を見るものじゃない」
はっと気がついたように、少し後ろへ下がって照れ笑いをしてみせる。
「雨上がりの森の色だ…一対のエメラルドだね」
瞳を軽く指差して、ふっと微笑うと。
一瞬、今まで以上にその眼が丸くなった。
「…どうした？」
ううん、と首をぶんぶんふって、お茶のおかわりを入れる。
寒くない？とショールを膝にかけようとするのをやんわり断って肘掛にもたれる。
なんとも形容のしがたい表情をしながらお茶を飲んでいる彼女を見つめる。
気づいた彼女は、すこしくすぐったそうな顔でカップを ソーサーに置いた。
「気を悪くしないでね？
わたし…パパのことってあんまりよく覚えてないの。
ほんとに小さいときに病気で死んじゃったから。
ママはわたしとふたり、生きていくために働くので精一杯だったし、
そんなママの背中をずっと見てきたから…大変なこと はよくわかってたから…」
私のほうを見ようとしないで、独り言のように話していく彼女。
相槌は打たないほうがいいだろうと私は黙って聞いてい た。
「クリスと知り合ったとき、まるでわたしたちって似てないけど、鏡の裏と表みたいな気がしたの。
わたしにはパパがいないし、クリスにはママがいな でしょ？
クリスはよく、ママがいるあなたがうらやましいって 言ってた。
わたしはわたしで、口には出さなかったけどクリスがうらやましかったの。
わたしも、いろんなお話をしてくれるパパが欲しかっ た…ってね。
ふふっ、お互い無いものねだりをしてたんだわ」
与えられていないわけではない。
そして、よくよく頭では理解をしていても。
どうしても埋められない隙間があり、どうしても満たさ れない心がある。
彼女たちが胸に抱えていたものが…今なら私にも少しは わかる気がした。
湿っぽくなった空気を払うように、メグは勢いよく立ち上がると、
空になったカップをトレイに片付けはじめる。
その姿をみているうちに、ある思いつきががひらめいた。
しばらく留守にしている…私の我が家。
あそこは…隠し部屋は誰にも知られず、そのままになっているはずだ。
あれは…あの宝石たちはペルシャで得た私への正当報酬 だ、彼女が持つのになんの不都合も曇りもない。
いつか渡すことができるだろうか。
そう遠くはない未来、私は再びあの場所へ帰る…そう、そんなに先のことではないはずだ。
もしかしたらこれも夢なのかもしれない。
地下の王国でひとり、朽ちていこうとする私が最後に見 ているつかの間の優しい夢。
「あら、もうお昼過ぎてるわね、そば粉のクレープなんていかが、おじさま？」
さっきまでのことなど忘れたかのようにトレイを威勢よく持ち上げて、彼女が口を開く。
「そいつはいいね。急がなくてもいいから…楽しみに待つとしよう」
満面の笑みを浮かべてドアを勢いよく開ける。
その向こうへと姿を消していく後姿を見送ったあと、軽く眼をつぶる。
夢はいつでも私に優しくはなかったけれど。
こんな夢なら…悪くはない。
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