猫と紅茶とあの人と
…独り暮らしの習性とは哀しいもので、誰もいないとわかっていてもつい
「ただいま」という言葉がでてしまう。
横でくすりとこぼれる笑いに思わず苦笑い。
部屋の中に入り、マントを片付けるのもそこそこにクッションに倒れこむ。
久しぶりに外を歩き回ったのと、雨による寒さで身体が少し根を上げているのがわかる…だるい。
でも、口に出したが最後、過保護な約１名が何を言い出すかわかったもんじゃない。
溜息をつきつつクッションに身体を預けると、ちりちりとかすかな音をたててアイシャが
一目散にここへやってくる。
首輪に付けられたのは、金でできた小さな鈴と、本物とは思えないほど大きなダイヤの組み込まれた
首飾り。歩くたびゆれる鈴の涼しげな澄んだ音が響く。
ただいまと声をかけるとにゃあ、と一声ないて身体を摺り寄せる。
そのままひざに乗ってきて動かない…誰もいなくて寂しかったのだろう、頭をなでてやると
気持ちよさそうに目を細めた。
「留守番がお気に召さなかったようだね」
部屋着に着替えた彼が隣の部屋から姿を現す。
そんな彼にちらりと一瞥をくれながら、わたしの膝の上から動こうとしないアイシャを見て苦笑する と、
「そのまましばらくお嬢様のお相手をしていておくれ」とキッチンへ消えていった。
ひょんなことから、威容を誇るオペラ座の外観を拝めたのはなんとも幸運だったが、
雨のおかげで、彼の思い出したくない過去とやらを思いださせるコトにもなってしまったようだ。
帰りの地下道でほとんど口を開こうとしなかった彼の横顔を思い出して
溜息がまたひとつこぼれる。
できることならひとつずつ、ほんの少しずつでも彼の抱えている傷を癒すことができたら。
そう願い、それにチャレンジしてみたい自分がいる。
しかし、それはお前のすることではない…と戒める声が常に聞こえてくるのも事実。
そう、ただでさえ何かを狂わしているのがわたしの存在。
かといって、ここに自分が存在する以上、干渉しないようにと無視・静観を決められるほど
意思が強いってわけでもないんだよな…あ、また溜息。
思考がどんどん袋小路になっていくのをふりはらって、脇にきちんと重ねていた雑誌から１冊を 引っ張り出す。
ロンドンで発行されている女性向けのそれは、最新のファッションや流行のお菓子・上流階級での出来 事から
詩や小説まで、抜群のセンスと品のよい構成で知られているらしく、昔から大好きなかの国の今の様子 が
手に取るようで、この世界におけるお気に入りのひとつとなっている。
海の向こうには、それこそ夢にまで見た憧れの19世紀末のロンドンが確かに存在している。
少女のように小柄だけど、その名のとおりに偉大な女王をいただいた大英帝国。
大気汚染によるスモッグが昼間でもたちこめ、その間を縫うように二輪馬車が駆け抜ける。
光が強ければ、できる影はより濃くなる…繁栄を欲しいままにしつつ、新世紀を目前に
あらゆる清濁が併せ集った霧の魔都。
小学校の図書室で出会ってから十数年、いまだシャーロキアンを自称して
はばからないが…オペラ座の地下に怪人がいるからってよもやベイカー街に我らが名探偵と
その親愛なる親友殿がいたりは…しないだろうな？
うわぁぁぁぁ…行きたいぞっと。
自分のたわけた妄想に思わず身を震わせて笑いをこらえていると、上から声が降ってくる。
「…なにか面白い記事でもあったのかね？」
トレイに湯気の立つ紅茶を乗せた彼が横に座り込む。
「なんでもない」
「…なんでもないようには見えないがね？」
…酸素不足の魚よろしく口をぱくぱくさせながら酸素補給してて「なんでもない」もないか。
「昔からイギリスが好きでね、とくにこの時代のロンドンには興味津々だったの。
ドーバーの向こうに、今実際にあるのかと思うとなんだか夢みたいで…」
「嬉しくて笑ってたというのかい？」
「…そんな理由であんな笑いかたすると思う？」
少しスモーキーな香りがただようキーマン。
そのままでもいいけれど、コンデンスミルクを少し入れて飲むと、
寒いときはそれだけでしあわせな気分になるから不思議。
カップを両手で抱えながら、そっと表情を盗み見ると…さっきより少し
表情がやわらいでいるようでほっとする。
「…わたしの初恋の人が今のロンドンにいるの」
不自然に揺れるカップ・・・噴き出さなかっただけまだましか。
「で、そいつに会いにロンドンに行きたいと？」
「いきなり飛躍しないでくれる？実在の人物じゃないんだから」
…今しゃべってる相手だって実在の人物じゃなかったっけ。
「推理小説の主人公。
名探偵でね、鋭い観察力と深い思考力で大抵の事件を解説しちゃうの。
エキセントリックでダンディでクールかつストイック…」
…あれ？
誰かにダブって見えるのは気のせいだろうか。
実際、ホームズが探偵として活躍したのは1877年から1903年。
まさに今、活躍中と言っていいわけだ…とはいえ、ストランド誌に掲載されるのは
もう少し先のはずだから、詳しいことは言わないにこしたことはないけど。
「あこがれた時代の片隅に、自分が今いると思うと不思議でね。
まして、ありえっこないけどもし彼が実際にいたら…って想像したら
なんだか面白くなっちゃったってわけ」
彼にしてはすこしだらしない格好で、クッションによりかかる。
仮面でその面を隠そうとも、仕草や身にまとう雰囲気が何かを醸しだす。
そんなしどけない姿もそれなりに絵になるから…困る。
「想像の翼を広げて楽しんでいたところを
声をかけてお邪魔してしまったというわけだね？」
「想像の翼…というよりは妄想の域だわね。
あれ以上暴走するまえにストップかけてもらってちょうどよかったわよ」
溜息混じりに方をすくめてみせると、くすくすと笑いながらカップを傾ける。
「なるほど、その少々変わり者な名探偵殿が君の初恋の君というわけか」
「…なーんか、おもしろがってない？」
上目遣いに顔を見る。
そこに、あたしのことを忘れてない？とばかりにアイシャがにゃあと一声。
ご主人さまの胸元へと擦り寄っていく。
顔を見合わせて思わず…笑ってしまう。
ふとまじめな顔になると、いつになく静かな声でたずねてくる声。
「こんな窮屈な生活で…嫌じゃないかい？」
「嫌がったり退屈しているように見える？
…かなり毎日をシアワセにおくらせてもらってると思うんだけど」
さらになにか言いたそうにしているけど、あえて問うことはしないで
ひとりごちる。
「言わせてもらえば、感謝してる。
とっても…ね。あなたに助けてもらってなかったらどうなってたか怖くて想像できないもの」
そんな言葉をそっけなく聞き流し、下を向いてアイシャをかまっているように見えるが…
アイシャをなでる手。
そのもう片方はぎこちなく床をうごめいて。
その手に触れようと手を伸ばしたものの、直前で思いとどまり、
触れるというよりは人差し指でかるくつつく形になった。
「もう１杯、紅茶はいかが？」
「…うん」
元いた場所でも、こんなに暖かくて優しくて…静かなひとときなんて
そうはなかったと思う。
猫と、あたたかな紅茶と…あの人と。
夢のよう…いや、やはり夢なのだ。
なによりも自分がこんな夢を見たくて
彼という存在を、この世界を生み出しているのではないのだろうか。
夢はいつかは醒める。それを恐れているのは彼だけではない。
きっと…わたしもそう。
今まで、彼に与える影響ばかりを考えてきたのは…自分自身のことを考えたくなかったから。
こんな暮らしの中で、少しづつ自分の中の何かが変わっているような気がして。
紅茶を入れ、自分の分にはコンデンスミルクをひとたらし。
居間に戻ると…膝の上にアイシャをのせながら、穏やかな表情を見せる彼に何事もないように微笑みか ける。
２杯目の紅茶をひとくち。
それは思ったよりも渋く…口の中を拡がっていった。
…創作の小部屋・２へ