…創作の小部屋１へ
もうひとつの
Dear Angel 〜ふたりのノルン〜
このまま、この人を置いていったら･･･確実に殺されてしまう。
彼は逃げないだろう･･･きっとこのまま死ぬ気なのだ。
そう思ったら、無意識に身体は反転して、彼の袖をつかんでいた。
不思議だ。
あれほど誰よりも「亡霊」を恐れていたわたしが。
彼も驚いたのか、振りほどきもしない。
しかし、出口へと引っ張ろうとすると
静かな声がそれをとどめた。
「･･･離しなさい。
一時の感傷で動くのは若さの特権だが、後悔するのは君だ」
「このまま、みんなに捕まるつもりなの？ その後どうなるかわかってるでしょう？」
「あの娘にとって、わたしはもう無用の存在だ。亡霊は･･･消えるしかないのだよ」
「だめっ、クリスのためにも消えるなんて許さない。
あなたは･･･亡霊なんかじゃない。
亡霊と呼ばれた“あなた”は消えても“あなた自身”は残らなきゃ！」
声のトーンは静かだが、まるで叩きつけるような返事が返ってきた。
「残って･･･そしてどうするというんだね？
もう、私のいる世界などどこにもない･･･せめて死ぬ自由くらいはわたしに残してくれない か？」
乱暴に振り払おうとする手を逃がすまいと握り締め、自由になっていた片方の手で
思いっきり彼の頬をひっぱたいた。
･･･今思い返しても、なんてことをしたんだろうと青くなってしまう。
生命知らずもいいところだ。
彼もコトの成り行きにただ呆然としている。
「このまま死ぬなんて許さない。
もう死ぬしかないなんて、誰がわかるの？
明日、ものすごい幸せが転がり込んでくるかもしれないのに！」
「･･･たとえば？」
うっ。
「･･･きれいでやさしくてグラマーな女性と恋に落ちるかもしれないわ。
生きてて良かったって思えるほどおいしいものを食べられるかもしれないじゃない。
生きていればなにが起こるかわからないってママも言ってるもの！」
うわぁぁぁ･･･我ながら言ってることがめちゃくちゃ。
彼の身体がかすかに震えている。
うつむいたその表情はわからないがどうやら･･･笑っているようだ。
もう１度、椅子から立ちあがらせるように引っ張ると…すんなりと身体が立ちあがった。
腕を引っ張りつつ、戸口へと向かう。
長い長い階段を上り、隠し扉を見つけたあたりまでやってくると、不意に彼が立ち止まった。
「ここから、どうする？扉を出たら連中と鉢合わせをするかもしれない。」
「いったん、クリスの楽屋へ行きましょう。合いカギがあるわ。」
そう返すと、彼は扉の横の壁をいじり出した。
通路の壁に別の扉が出現する。
「･･･ここから行ける。」
人ひとりが通るのがやっとの細い道をゆく。
ふいに道が曲がったかと思うと小さな空間が現れた。
突き当りには･･･大きなガラスがはめられていて、向こうに部屋がうっすらと見える。
もしかしてこれは･･･
また、彼が壁の一部分をいじると･･･鏡が回転式の扉のように静かにゆっくりとまわり始 めた。
鏡の向こうは衣装かけやドレッサーが並ぶ、彼女の楽屋だ。
『ハンニバル』のときに、楽屋を訪れた子爵さまが
「彼女が部屋から消えてしまった」
となかばパニックを起こしながら言っていたのは･･･このせいだったのか。
部屋にはいると、耳をすます。
楽屋部屋の中でも少し離れているここまでは、人もあまり来ない。
外はとても静かだ。
「しばらくここにいてくれる？外の様子を見てくるわ。
ここのカギを持っているのはクリスとわたしだけだから大丈夫。
帰ってくるまで、ぜったいここにいてね？」
ちらりと私を見ると、肩をすくめてみせる。
「･･･ここまで来たんだ、ご主人さまの仰せに従うとしよう」
扉をほそくあけて、すきまに体をすべらせる。
通路には誰もいない･･･よし。
冷静に、何事もなかったように歩き出す。
胸は早鐘をうちっぱなしだ。
ダンサーたちの控え室へと戻ると、ざわついた女の子達の向こうに険しい表情のママがい た。
わたしが入り口に立った途端、部屋を横切ってこっちへ来る。
そのまま、わたしの手を取ると部屋を出て、通路の片隅へ来ると
ふいに、わたしを思いっきり抱きしめた。
「よかった！･･･無事だったのね、メグ。
みんなが途中で姿を見失ったというから、気が気じゃなかったわ」
いつも冷静なママの白い顔･･･目が少し涙ぐんでいるのがわかる。
「ママ･･･」
わたしの頬にかかった前髪をそっと直すと、ママはうなずいた。
「クリスは大丈夫、子爵さまがついてるわ。騒ぎに巻き込まれる前に
子爵さまのお屋敷へ行ったの･･･このまま少しパリを離れることになるかもしれない。
あなたに会いたがっていたのよ」
･･･ああ、クリスティーヌ。
青い大きな瞳に涙をためた、泣きそうな彼女の表情が頭に浮んだ。
彼女のためにも、彼を救いたい。
「ママ、助けてあげたい人がいるの･･･」
ママは表情を少し改めると、私の顔をのぞきこんだ。
「･･･“彼”に会ったのね？」
ママの目を見て、ゆっくりうなずく。
「わたし、途中でみんなとはぐれて･･･隠し通路を見つけてあそこへ行ったの。
彼に会って･･･そのまま、ひとりで帰ってこれなかった」
哀しげにママがうなずく。
「あのひと、そのままみんなに見つけられて死ぬ気だったわ。
みんなが来る前にはやく行けって･･･そんなことできなくて、いやがるあのヒトを
ひっぱたいて、むりやり連れてきちゃった。
今、クリスの楽屋にいるわ。ママ･･･どうしたらいい？」
そこまで一気にまくしたてて、ふと気づくとママが目を丸くして
わたしを見ているのに気づいた。
「･･･ママ？」
「彼を･･･ひっぱたいたですって？」
決まり悪げにうなずくと、ママはいきなり噴き出した。
「まぁ、メグったら･･･！そんなことをしたのはきっとあなたが初めてね。
亡霊をひっぱたくなんて･･･」
あまり人目につかないように、けどひとしきり愉快そうに笑ったあと、ママは
すぐに表情をひきしめた。
「とにかく、彼にはもう少しクリスの楽屋にいてもらわなくてはならないわね。
警察の事情聴取が済むまで帰れないとは思うけど、なるべく帰る時間を引き延ばして
最後の馬車を手に入れなくては。私たちのアパルトマンはオペラ座の誰とも方向が違うから
時間を引き延ばせばなんとかなるわね。」
「彼をうちへ連れていくの？」
ママは、ゆっくりうなずいた。
「みんなはほとんど聴取がすんでる。ダンサーではあと･･･メグ、あなたくらいだわ。
あとはわたしたちと支配人が受けて･･･もっと詳しいことは明日以降になるでしょう。
ファントムは見つからなかったことになってるし、
彼の隠れ家も、見つかったのは一部分だけで、奥は見つかってないようだし･･･
そのまま見つからずにすむと思うけど、しばらくオペラ座からは離れたほうがいいでしょうね。
さぁ、最後に聴取を受けに行ったマリアンヌがそろそろ帰ってくるわ。
･･･しっかり答えてらっしゃい」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、今にも泣き出しそうな顔をしながらこっちへ
やってくるマリアンヌの姿が見えた。
わたしたちの姿を見つけると、しゃくりあげながらこちらへ走ってきてわたしの胸に飛び込 んだ。
「メグ！･･･よかった、無事だったのね」
安心させるようにぽんぽんと背中を叩く。
「心配かけてごめんね･･･途中ではぐれて迷っちゃったの。
マリアンヌは大丈夫だった？」
ママにハンカチで涙を拭ってもらいながら、彼女は口を開いた。
「クリスは消えちゃうし、ピアンジさんはあんな恐ろしいことになるし･･･カルロッタは 気を失って
病院へ運ばれて行ったわ。男のひとたちと一緒に、何人かはみんなで地下へと行ったけど･･･
わたし、怖くて怖くてずーっとジャンヌやソニアたちと一緒にいたの。
そのうち、亡霊の死体を見つけたとか、誰かがまた殺されたとか、いろんな話が聞こえて
きて･･･メグまで行方不明になったって･･･」
ぽろぽろと涙をこぼす彼女をそっと抱きしめる。
「心配かけてごめんね･･･」
それを見ていたママが優しく声をかけた。
「さぁ、次はメグが警察の方々の前でお話をしてくる番よ。
･･･マリアンヌ、一緒に部屋に帰りましょう」
そっとマリアンヌの肩を抱いてわたしから離すと、ママは目配せをした。
うなずいて、去り際にマリアンヌに声をかける。
「すぐに帰ってくるから･･･」
小走りに廊下を走り、階段をあがって支配人室へ急ぐ。
支配人室には、すっかり憔悴しきった支配人２人とレイエ先生。
いかめしい顔をしたパリ警察の警部だという人と警官が何人かいた。
部屋にはいってきたわたしを見て、まっさきに声をかけたのはレイエ先生だった。
「メグ･･･無事でよかった。姿が見えなくなってみんな心配していたんだよ。」
「ご心配をおかけしてすみません。」
そのまま、警部さんや支配人たちからいくつも質問が飛び出す。
地下へ行ったものの、みんなとはぐれてひとりになっていたことと、
クリスと一番親しい友人であるということでいろいろ聞かれたけど。
皆の中でもかなりこわがりでファントムに対していつもびくついていたこと、
クリスに関していろいろと世話焼きだったわたしが、心配のあまり怖さを省みず地下へ
降りて、結果迷ってしまったのだろうとレイエ先生がおっしゃってくださったおかげで
それほどあやしまれることもなく、20分程度で帰っていいとのお達しが出た。
部屋の出口まで送ってくださったレイエ先生に聞いてみる。
「先生、クリスは大丈夫でしょうか？そして、ママ･･･いえ、ジリー先生は･･･」
レイエ先生は、やさしくうなずいた。
「メグ、大丈夫だ･･･心配はいらんよ。
クリスティーヌには子爵さまがついている。彼女にしてみても被害者なのだし、
そんなに困ったことにはならんだろう。マダム・ジリーも噂はたてられているものの
どれも、根拠のあるものではないからね。それより、マダムに顔は見せたかね？
口には出さんが、かなり心配していたぞ･･･みんなもだ。早くいって安心させておやり。」
「はい。」
会釈もそこそこに、控え室へと戻ろうと階段を駆け下りて、ふと思い出す。
彼とあの部屋で別れてからそろそろ１時間が経つ･･･ちゃんと部屋にいてくれているだろうか？
一瞬どうしようか迷ったけれど･･･やっぱり気になるし、行ってみることにした。
調べられた人から順に、今日はもう帰っていいことになっているらしく、
人はいつもよりかなりまばらになっている。
おかげでたいした苦労もせずクリスの楽屋まで辿りつくと、持っていた合い鍵で
ドアを細くあけ、中へと身体をすべりこませた。
灯りはなく、中は真っ暗だ。
ちょっぴり怖いのをガマンしながらそっと声をかける。
「わたしよ･･･ちゃんとここにいるんでしょうね？」
闇に目が慣れてくる。
ドレッサーの前にひときわ濃い闇が固まっている･･･彼だ。
「そこにいるのね？」
かすかなささやきが応える。
「･･･ああ。」
「ごめんなさい、あともう少しだけ待っていてくれる？」
「待って･･･どうするんだね？」
手短に、現在の様子を説明する。
「君たちがすばらしくお節介であるからといって、それは安易に賛成しかねる。
第一、どうやって人目につかず馬車に乗るというのだね？
おまけに、ご婦人たちだけしかいないアパルトマンに男の影がちらつくとあっては
近所におもしろおかしく格好の噂を提供するようなものだ」
「大丈夫、ママにまかせて。
あと１時間くらいしたらまた来るから･･･あ、大丈夫？喉はかわかない？」
ふっ、と空気が揺れたような気がした。
「･･･あと１時間、いろいろと考えるにはいい時間だ」
「逃げないでね？」
応えは帰ってこない。
「女性に恥をかかせないでよっ？」
思わずつぶやくと、くつくつとこらえきれないように笑い声が聞こえてきた･･･もうっ。
入ってきたときと同じようにそっと扉を閉め、出ていく。
気分が高ぶっていくのが自分でもわかる。
いたずらを実行する前みたいな、楽しいパーティの準備をしているときのような、
そんな気持ちを感じるのはなぜだろう？
不思議と、これからすることに対する不安も、殺人を犯した人間をかばっているという罪悪 感もない。
確かに彼のやったことは許されることではないけれど。
でも･･･でも、いったい誰がその罪をさばけるというのだろう？
少なくともわたしたちじゃないし、警察でもないような気がして。
殺されたブケーとピアンジには申し訳ないけど。
お願いです。
少しだけ･･･少しだけ時間をください、神さま。
罪は罪として、けっして許されるものではないけれど。
あの人が少しは生きていて良かったって思えることがあるように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それからとても長い年月がたったように思うけど。
実際には５年と経っていないのに･･･
もう･･･ママもあの人もいない。
不思議なほど、静かで優しかった日々。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あの日。
ママは彼にごく普通のフェルト帽にマント姿という姿で、わたしとあとから通用口へと
来るように言った。
こわごわやってくると、いつも通用口横のボックスにいる夜間管理人の姿はなくて、
出口には馬車が１台。
開け放たれた扉の横にママが立っていた。
彼はするりと馬車に乗りこみ、わたしが後に続く。
まるでそのタイミングを見計らったように、管理人が手に何かをもってやってきた。
「マダム、お忘れ物はこれだろ？」
手にしていたのは、黒のショールとちいさな布のバッグ。
「ああミシェル、助かったわ･･･ありがとう」
「いや、お安い御用さ。マダムの言ったとおり、控え室の入り口の椅子の上にあったから ね。
･･･こんな日はさすがのマダムでも気が動転するんだねぇ」
「いやねぇ、そんな風に言わないでちょうだいな」
気のいい管理人は恥ずかしそうに応えたママを見て愉快そうに笑うと荷物を渡し、
奥を隠すように入り口に座っていたわたしを見て声をかけた。
「メグ、今日はお疲れだったな。早く帰ってゆっくりお休み」
「ありがとう、ミシェルおじさんもね！」
ママが乗りこんだあと、馬車は静かに走り出し･･･
なんともあっけなくわたしたちはオペラ座を抜け出すことができた。
それから、彼がわたしたちのアパルトマンにいたのは･･･そう、１年くらいだったろう か。
不思議なほど静かに時は流れた。
彼は相変わらずだったし、外に出ることもなかったけれど、わたしの言うことをまぜっかえしては
くつくつと笑うことが多くなった。
そんなわたしたちをママは、ゆったりと笑いながら見ているだけで。
ある日、北欧の国から１通の手紙が来るまでは、こんな日がまだまだ続くと思っていた。
それは･･･クリスからの手紙。
あれから、子爵さまと共にイギリスへ渡った彼女はそこで子爵さまと結婚し、イギリスから
彼女の故郷であるスウェーデンへと向かった。そこでしばらくゆっくりした二人は
そろそろフランスへ戻ってくるという。
そんなことをしたためた手紙には、もう１通、封をされた手紙が同封されていた。
表にはひとこと「エンジェルへ」とだけ。
どうやらママを通じて、彼がここにいることをクリスは知っていたらしい。
彼はその手紙を手に、自分の部屋となっている客間へこもるとそのまま出てこようとしなかった。
翌朝。
朝食の時間になっても出てこない彼を心配して、部屋をノックしようとやってくると
ドアが細く開いている。
イヤな予感がして勢よく扉をあけると･･･部屋はきれいに片付けられ、つかの間の主（あ るじ）の姿は
どこにもなかった。
整頓されたベッドの上には、１通の手紙がおかれていた。
「言葉では言い尽くせぬ恩義を、お二方には 感じている。
しかし、最後のわがままをどうか見逃していただ ければと思う。
マダム、どうか彼女には会えないと伝えて欲し い。
私はすでに、彼女にとって必要のない者なのだか ら。
すでに、オペラ座の亡霊のことが移り気なパリの 人々の口にのぼらなくなって久しい。
そろそろ住みなれた我が家へと戻ろうと思う。
･･･私が長い眠りにつくのはやはり、あそこが ふさわしいと思うから。
数年前からこの身を蝕んできた病が、少しづつ進 みつつある。
おそらく、あと半年と持ちはしないだろう。病のことを隠していたことはどうかお許し いただきたい。
だがこれ以上、御迷惑をかけるわけにはいかな い。そして･･･私の元を訪れようなどとは思 わないでいただきたい。
あなたがたが、私のことを少しでも親しいものと 感じて
くださっていたのなら、重ねてお願いする。「あの日」から今までの日々を与えてくだ さったことを心より感謝する。
＜追伸＞
彼女に会うことがあったら、もう一言だけお伝え 願いたい。
「歌を忘れないでほしい」と。
メグへ。
生きていれば何がおこるか･･･本当にわからな いものだね。
それを教えてくれた私の小さなノルンに感謝す る。
母上にも心からの感謝を伝えておくれ。
かつて 「亡霊」とよばれたエリックより」
その後、彼の姿を見ることはなかった。
プリマと呼ばれるようになったわたしの楽屋には･･･支配人に頼んで、クリスの楽屋を
そのまま引き継いでいたのだが･･･時折ドレッサーの上に１輪の薔薇が置かれていることがあ る。
たあいもない手紙や、わたしが焼いたクッキーやマドレーヌの包みを置いておくと
翌日にはきれいになくなっていて。
残念ながらこちら側からは鏡はびくともしなかったし、地下にあった隠し扉はまったく
動かなくなってしまっていたけれど。
それは、彼とわたしたちをつなぐ糸はまだ完全にとぎれてはいないことを教えてくれていた。
しかし「その日」はふいにやってきた。
いつも通り楽屋にはいると、ドレッサーの上には薔薇の花以外に小さな包みが置いてあった。
花以外の何かを彼が置いていったことはない･･･弔いの鐘のように、心臓が重く鼓動を打ち始め る。
中には･･･凝ったレースのハンカチに包まれた、一対の緑の石と金の指輪。
緑の石は多分エメラルドだ。
何かの拍子にわたしの眼を見て
「雨上がりの森の色だ･･･一対のエメラルドだね」
彼がそういって微笑ったときの表情を今でもはっきり覚えている･･･ああ、こんな表情も
この人はできるのかと、あのときふと思ったっけ。
そしてもうひとつは、中央にとめられた小さなダイヤ以外にこれといって飾り気のない金の 指輪。
これは多分･･･いやきっと、彼女へあてられたもののはず。
「あの日」クリスの指にはめられ、そのあとはずっと彼の小指にはめられていた。
それがこうやって彼の手を離れたということは･･･きっと、そうなんだろう。
包まれていたハンカチになにか文字が書かれている。
「ふたりのノルンへ」
やっとの思いで書いたのだろうか･･･少し震えた字が眼に入った瞬間、
涙で視界がぼやけた。
「エリック･･･」
声に出した瞬間、嗚咽がこぼれだす。
ノルン･･･ノルニルとも呼ばれる、北欧神話に出てくる運命をつかさどる三女神たち。
姉妹はそれぞれ過去・現在・未来をつかさどるという。
あなたのために紡がれた運命はとても厳しいものだったけど。
ねぇ、少しは幸福だって思ってもらえたこと、あった？
だとしたら･･･これほど嬉しいことはないのだけれど。
そろそろ支度をしなければならない。
今日は、きっとレイエ先生に怒られるだろう。
どんなに化粧をしても、はれあがった目はごまかせないだろうから。
レースのハンカチを握り締めてわたしはただ、声をあげて泣きつづけることしかできなかっ た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夜毎、美しく着飾った淑女や小粋なモードに身を包んだ紳士が集ったオペラ座。
わたしの大切な人たちは、今はもう誰もいない。
ママも、クリスも･･･そしてあの人も。
わたしの住む世界も、大きく変わってしまった。
それでも、ふと耳に手をやると。
涼しげな音をたてて、緑の石が揺れるのがわかる。
２つのエメラルドは、華奢な金細工のピアスになってわたしの耳に揺れている。
夫はいつも言う。
「君は、本当にそのエメラルドがお気に入りなのだね。
いったい、どこの貴公子から贈られたのか･･･妬けるほどだよ。
たまにはわたしが贈ったものをつけようとは思ってくれないのかな？」
決まってわたしはこう返すのだ。
「ふふっ、音楽の天使がわたしにくださったの･･･これは、かつてわたしが
オペラ座の･･･あの光の中で生きていたという"証し"なのよ」
「･･･なのに、君はオペラ座へ行くのが好きではないようだね。
やはり母上のこととか･･･いろいろ思い出してしまうのかい？」
ちょっと微笑んで、夫の傍に寄りそう。
そう、もはやオペラ座には誰もいない。
ただひとり残されたわたしも･･･ドレスと宝石に身を包んでボックス席に座ることしかできな い。
でも、目を閉じれば。
鮮やかすぎるほどにさまざまな思い出がよみがえる･･･そう、いつでも。
Dear･･･Angel of music。
空の高みでいま、あなたは幸福かしら。
わたしの言うとおりにしたんだから、きっと幸福よね？
ふと、くつくつと愉快そうに笑う声が聞こえたような気がした。