闇を泳ぐ魚
暗く、静かな闇の中。
すべるように進むゴンドラからそっと水面に手を伸ばす。
ひんやりとした水の感触。
「ここって、魚はいるのかしら？」
「…魚？」
優しいけど、少しあきれたような彼の声。
「そうだね、ウンディーネに従う魚たちがいるかもしれない。」
「ウンディーネ？…水の妖精がいるの？」
「そう、私の家を守る見張り番さ。私に断りなく湖に近づくと容赦しないよ。」
「…私も？」
ふっと笑って。
「クリスティーヌ…お前は別さ。」
やがて、ゴンドラは宮殿の入り口へと到着する。
そこは、闇を支配する黄泉の王の宮殿。
こうやって、何度ここへ来ただろう。
初めは訳もわからぬままに。
次は恐れと陶酔に身をまかせながら。
そしていつしか…自分自身の意思で。
私を導いてくれたのは音楽の天使ではなかった。
「オペラ座の怪人」と呼ばれ、恐れられていたひとりの男。
仮面の下のその素顔を恐れないといえば、それはウソになる。
でも、恐ろしいと思う気持をほんの少し上回るなにかが、
私の中に生まれてきているのも…事実。
初めは、天国のパパが約束を守ってくれたのだと信じて疑わなかった。
私のために、天から降りてきたエンジェル・オブ・ミュージック。
まるで魔法をかけられた灰かぶりのように、私は変わった。
オペラ座に響き渡る、マルガレーテ・ヴィオレッタ・オフィーリア。
この私が歌ったのだ……カルロッタでなくこの私が！
誰もが驚き、そして新しいプリマとなった私を讃えた。
今だ、夢の中にいるような気がする………夢ならいいのに。
ひととおりのレッスンが終わると、彼は優雅な手つきで紅茶を入れた。
「喉がかわいただろう…今日はすこし乾燥しているからね」
そっと、私の手に触らないよう細心の注意をこめて、カップの乗った
ソーサーを渡してくれる。
あのとき、わたしが子どものように怯えてしまったせいで、
彼はわたしに不用意には触れないようにしている。
今となっては、そんなに気にしてもらうのは心苦しくて仕方がない。
こうしていれば、なにも怖くなんかないのに。
レッスンは厳しいけど、彼の導きどおりに歌っていると…
心に大きな翼が生えて、どこかへ…遠い遠い空の高みへと飛んでいって
しまうようだもの。
父親のように暖かくて、ときに厳しく私を導いてくれる。
闇をも従える威風堂々とした姿。
天才的な音楽家で建築家で、そして…
命を狩る鎌をもその手に持っているのだろう…
様々な仮面を持つ彼の…本当の素顔。
一目見たとき、頭が真っ白になってしまったほどのその素顔の奥に、
時折、なにかが姿を見せる。
それはいったいなんなのだろう…？
知りたい。
そう思う一方で、知らないままのほうがいいのだと、誰かがささやく。
自分でも何をしたいかわからない。
ここ最近、自分でもイヤになるほど気持が定まらない。
ふさぎこむわたしを、多分エリックも気にかけていたのだろう。
紅茶を飲み干すと、ふいに口を開いた。
「今夜は、ちょっと外に出てみたい気分なんだ。
君さえよければ…本当によければなんだが、ブローニュへ行ってみないかい？
今なら、満月を少し過ぎた月がでているはずだよ。
少しは君のなぐさめになるかもしれないがね。」
彼ががそんなことを言い出すのは初めてだ。
だいいち、月明かりのような明るいものがある夜に彼が外にでるなんて。
驚いて彼を見ると、少しそわそわしているように見える…気のせいだろうか？
私がいつまでも黙っているのを見て、ちょっと肩をすくめてみせると
彼は私の前に立った。
「つまらないことを言ったようだ…さぁ、送っていこう」
わたしがその手を取らないことを知っていても。
礼儀として、彼が差し伸べる手。
思わずぎゅっとつかんでいた。
かすかに、不揃いな彼の目が大きく見開かれる。
「エリック、あなたさえよければ…連れていってくださらないかしら？
月に照らされたブローニュは銀色に輝いて見えると聴いたことがあるわ。
わたし、見てみたい…」
地下をたゆたう、暗い…暗い水。
ひとすじの光もさしこまない水の中で泳ぐ魚。
青白く浮かび上がるその姿がうねり…水面ではねる。
その水音が、頭の中に響いたような気がした。
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