Diva 〜緋薔薇の歌姫〜
＜喉の中のヒキガエル・前編＞
…わたくしが舞台をボイコットしたことは、結果的に亡霊を喜ばすことにしかならなかっ た。
ルフェーブルに負けず劣らず事なかれ主義の新しい支配人たちは、話し合いにわたくしの元 へ来るよりも
わたくしを急病ということにして、そのままクリスティーヌ・ダーエを代役に抜擢することを選ん だのだ。
美しく儚げでたよりなげな…観るものの庇護欲をくすぐる彼女は、それまでオペラ座にはな かった
新しいタイプの歌姫として観客に…とりわけ騎士道精神にあふれた一部の紳士方に熱狂的に
迎えられることとなった。
舞台がはねた後、支配人たちはわたくしの元を訪れ、オペラ座一の歌姫は変わらず
カルロッタ・ジュディチェルリであることは動かしようのない事実であり、わたくしの負担を
軽くするためにも、もうひとり歌姫がいたほうがわたくし自身のためになるのだと熱心に説いた。
軽い脱力感を覚えながら、わたくしは延々と賛辞を繰り返す支配人たちの美辞麗句をBGM に、
今日、新しく誕生したひとりの歌姫のことを考えていた。
人より前へ…他人を押しのけてでも前に立とうなんて思いつきもしないような彼女にとって、
今日の成功は吉と出るのだろうか、それとも…
翌日。
珍しく昼前に目が覚める…社交界にあわせた暮らしをしていると、どうしても１日の始まり は
昼過ぎからになる。
昔はそれがなまけているようでどうにも嫌だったのだけど、連日の舞台や練習、オフのときでも
夜会や上流社会との付き合い…嫌でも夜は遅くなり、喉のためにも身体が要求するだけの睡眠を取 れば
おのずと生活の時間は決まってしまうのだから仕方がない。
わたくしが起き出したのに気づいた家政婦頭のマダム・シャトレが新聞とカフェ・オ・レを 運んできた。
気ままかつ勝手のいいホテル暮らしを好む歌手も多いけど、借り物である空間でくつろぐことは
どうしてもできなくて、わたくしはマレ街のはずれに小さいけれど手入れの行き届いた屋敷を借り ていた。
パリで初めての一人暮らしをはじめたときから身の回りの世話をしてくれているマダム・ シャトレは
40をいくつか越えた、栗色の髪にきらきらかがやくグレイのやさしい瞳が印象的なパリジェン ヌ。
ささやかだった暮らしが少しづつその名声に見合うようなものに…望まざる部分もあったけど…
なっていく過程でメイドや使用人は幾人か増えたけど、マダムはいつでもわたくしにとって、
遠いアンダルシアにいる母親と同じくらいに、慕わしくて頼りになるひとだ。
「昨日は遅くにお休みでしたわね…今日はお休みでなにも御用事はございませんでしょ？
ゆっくりお休みになればよろしかったのに」
窓をあけて、窓の外に綺麗に並べられている花をぼんやり見ていたわたくしに、
テーブルにカフェ・オ・レをセッティングしながら彼女が言う。
「いやだ、マダムったらお部屋にわたくしの部屋の中が映る鏡でも持っているのかしら？」
大げさに眉を上げて驚いて見せたわたくしに、くすくすと笑いながら
「そうでございますよ、鏡に向かって呪文を唱えればたちまちですとも。
お嬢さまが夜遊びされていてもすぐにわかりますわ」
テーブルにつくと、暖かな湯気をたてたカフェオレ・ボウルが目の前に置かれる。
「学生の頃ならともかく、今となっては夜遊びで目くじらたてられるような歳ではなくって よ？」
「なにをおっしゃいます。
ご実家の両親さまとお兄さまがどれだけご心配なさっているか。
わたくしごときにまで、いつも細やかなお手紙をくださいますのよ？」
…もちろん、こっちにも束のような手紙がしーっかり来ていますとも。
口を開いたらさらになにか言われてしまいそうで、無言のまま新聞を広げる。
紙面を大きく割かれて書かれているのは…昨日のオペラ座で起こった新たな歌姫の誕生につ いて。
カーテンコールの熱狂的な歓声とどよめきの中、彼女はまるで精も魂も尽き果てたように涙 を流しながら
ぐったりし、両側から支えられて立っているのもやっとの状態だったという。
それはまるでミューズがつかの間、彼女の身体を借りて降り立ち、また重い肉体を脱ぎ捨てて
去っていったようだった…と評している。
パリっ子たちにとっては、しばらく飽きずに済む恰好の話題だろう。
ちらりと目を通しながら、カフェオレボウルを持つ。
そのとき、遠慮がちなノックの音とともに、ひとりの少女が入ってきた。
この春に雇い入れたばかりの新入りで名前は確か…
「ポリーヌ、どうしたの？」
後ろで、わたくしの髪を梳いていたマダムが声をかける。
ハシバミ色の瞳をくりくりと動かし、打てば響くような才気と細かいところによく気のつく 彼女は、
入って早々からマダムのお気に入りになっている。
ちょっと困ったような表情で、わたくしに朝の挨拶をしたあと、彼女は口を開いた。
「ただいまラ・フォージュ男爵さまがお越しになられまして…
ご主人さまはまだお休みなので今しばらくお待ちをと申し上げてまいりました、今の うちにお着替えを」
はきはきとしゃべりながら、クロゼットルームへ向かいかけた彼女の後ろから、
ふいに背の高い人影が現れた。
「やぁ、姫君におかれてはお早いお目覚めじゃないか」
ジェラール・ド・ラ・フォージュ。
オペラ座のパトロンの一人であり…わたくしのパトロンでもある。
名門ラ・フォージュ家の跡継ぎでありながら家風には一切頓着せず、気ままに芸術を愛し
享楽を愛し…常識・非常識に関わらず自分のスタイルを追及する風変わりな男。
社交界でも変り者でありながらその洗練された物腰と人当たりのよさ、ご婦人受けする容貌 で
…まぁ人気者の部類に入るのだろう。
ひょんなことから出会い、一方的に気に入られ…いや、なつかれたといったほうがいいのだろう か、
なしくずしにパトロンの座に納まられているのだが。
芸術家とパトロン、とりわけ女性歌手とパトロンの関係は純粋な芸術への後援だけにとどま らない
ことのほうが当たり前だ。
才能ある若い歌手を援助し、また愛人とすることは上流社会でのステイタスのひとつといってもい いだろう。
しかし。
朝早くから若い女性の部屋に押しかけるほどの気安い行動を取りながら…そういった関係であった としても
少々非常識ではあるのだが…なぜか彼、ジェラールはわたくしとそうなることをよしとしなかっ た。
「 私は女性…とりわけ歌姫というものに夢を見ているのさ。
その身にミューズを宿す人と、一夜を共に…なんて恐れ多くてね。
君とは、このままが一番いいと思っているんだが…ああ、失礼だなんて思わないでおくれよ？
君は誰から見たって素晴らしく魅力的だ。二人きりでいると主義など忘れて、とっとと
この自制心に刃を突き立てたくなるほどにね」
大真面目な顔をしてそう言われたとき。
怒るよりもあきれるよりも、なぜか笑いがこみあげてきて。
はしたないと思うのも忘れて、わたくしは声をあげて笑い転げていた。
下心まるだしの誘いや、異国の田舎娘への好奇心にまみれた視線にいい加減嫌気がさしてい ただけに、
風変わりで突拍子もないけど飾らない人となりに惹かれはじめていたのも事実で。
なんとも奇妙な…友情と恋の間を行ったりきたりするような関係。
しかし、彼のおかげでわたくしはパリの社交界でしたたかに、優雅に生き抜く術と後ろ盾を
得ることができたのだ、感謝してもしたりないくらい…なのだが。
「…相変わらず、時間もこちらの事情もわきまえませんのねぇ、ムッシュウ？」
口を開けば、なんとも色艶のない会話がぽんぽんと飛び出してしまう。
「君と私の間でそんなものが今だあるということ事態がナンセンスだと思わないかね？」
わたくしの抗議をさらっと受け流しながら、そのまま部屋へと入り込んでくる。
前に立つなり差し出されたのは…切り取ってきたばかりなのだろう、無造作に束ねられた
淡いピンクの薔薇。
受け取ってそのなんともいえないピンクの色合いに思わず見とれていると。
「君にはあんな重たい紅より、こっちのほうがよっぽど似合うと思うんだがねぇ」
「まぁ…朝焼けの雲みたいな色ですわねぇ」
思わず感嘆の声を上げてしまったマダムに、にっこり笑いかけると
「うちの庭師が、このシーズンでいちばんいい色が出た株だと言っていたよ。
すまないが、頼まれてくれるかな？」
マダムはうなずいて、わたくしから薔薇を受けとると部屋を出て行った。
ポリーヌも雰囲気を察して一礼すると部屋を出てゆく。
開け放した窓から流れ込んでくる風が少しひやりとして。
ガウンの襟元を合わせなおしながらさりげなく窓をしめる。
「どうなさったの？こんなに早くにいらっしゃるからには
なにかあったのでしょう？」
再び部屋へ入ってきたポリーヌが、ジェラールへカフェ・オ・レをサーブするのを
見ながら問いかける。
「別に…久しぶりに"おいた"をして、君のお小言を聞きたくなっただけだよ」
そらっとぼけた表情で、傍らのポリーヌにウィンクしてみせる。
笑いをかみ殺した表情で、ポリーヌが部屋を出て行くと、ボウルを優雅に持ちながら
まるで、独り言をつぶやくように話し始めた。
「来月の公演は…確か『ファウスト』だったね？」
「ええ、今回の公演は短期間の契約だったから…それがなにか？」
ファウスト博士が悪魔メフィストフェレスとの契約を交わし若さと愛を手に入れる物語。
悪魔の誘惑を退ける純真な乙女マルグリートは、もう何度も演じた…いわば得意な役の
ひとつと言っていいかもしれない。
ボウルを両手で抱えながら、わたくしの眼をじっと見ると…彼はふたたび口を開いた。
「昨日、シャニィ伯爵から申し出があってね…初めに断っておくがこれは無理強いではない よ。
マルグリート役を、君とダーエ嬢とで交互に出演してみてはどうか、というんだ」
つとめて冷静に応えようとしたが…少し失敗した。
「初めは、公演すべてを彼女に…という話だったんじゃなくって？」
語尾が少しだけ、ほんの少しだけ震える。
普通なら気がつかない程度だが…彼にはきっとごまかせなかっただろう。
わたくしの頭の中で、人を馬鹿にしたような…喉の奥でくつくつと響かせるあの笑い声が、
一瞬よみがえったような気がした。
NEXT・・・＜喉の中のヒキガエル・後編＞
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