Diva 〜緋薔薇の歌姫〜
＜喉の中のヒキガエル・後編＞
マルグリートをあの娘にですって？
一瞬、呼吸をするのも忘れるような怒りと屈辱が走りぬけ身体が震える…しかし、いつのまにかそ れは
別のものへ…あえて名前をつけるのなら哀れみと呼べるものに変わっていた。
彼女の実力をまったく認めないわけじゃない。
けれど、これはあきらかに…弟を溺愛する伯爵の差し金と、支配人たちの思惑がうまく結びついた 結果だろう。
そして…支配人たちを裏で操る「彼」の思惑も、だ。
彼女本人の思惑などまったくおかまいなしのままに。
肩に暖かいものが触れて、我にかえる。
気がつくと、立ちつくしていたわたくしの傍にジェラールが立っていた。
「もう一度言うが、これはあくまで『提案』なんだ…伯爵もそこまで馬鹿じゃないからね。
選択する権利は君に…オペラ座一の歌姫にある」
そう言うと、わたくしの身体をそっと椅子まで導く。
「私自身は断っていいと思っているよ？
こんなやり方は…代役で成功を治めたとはいえ、性急すぎるし第一スマートじゃない」
机の上に差し出された一通の手紙。
封を切ると、中には神経質そうな文字が赤いインクでつづられていた。
『 親愛なる歌姫のために忠告させていただく。
できれば、明日からでも早急に休養を取られることをおすすめする。
我が歌姫のためにも、歌える代役はいるにこしたことはないのだから。
オペラ座の亡霊より 』
「支配人たちの元にも、同じような手紙が行っているらしい。
今度は舞台自体になにかしでかすんじゃないかと気に病んでるようだね。交互とまではいかなくても公演中に何回か交替で…今回のように君をまた急病に
したてあげるつもりなんだろうかねぇ？」
冗談じゃない。
急病による代役だなんて、その日の観客に…とりわけ貴族なんかじゃなく、高いチケットを
都合してやってくる人々に一番申し訳ない行為だというのに。
「わたくしはそこまで病弱じゃなくってよ。
交替を要求するなら、それなりの正当な理由を聞かせていただきたいわね。
婉曲に交渉しようなんて馬鹿にするにもほどがあるわ。いっそ、”かわいい弟の喜ぶ顔が見たいから” だの ”亡霊の癇癪が怖いから” だの、
単刀直入におっしゃっていただいたほうが聞きがいもあるってものだわ」
「…とはいえ、伯爵はオペラ座のパトロンの1人でもある。
むやみに媚びる必要はないが、はなから喧嘩腰になるのは君のためにならない。
ここは、私にまかせてくれないかな？
ご主人さまのくださるご褒美のために、うまいこと丸くおさめてくるさ」
いきりたったわたくしをなだめるような、のほほんとした声。
「そうね･･･申し訳ないけど、おまかせしてもいい？
で、ご褒美になにが欲しくてお骨折りくださるのかしら？」
ぱっちん☆と音のしそうなウィンクをしてみせる。
「今度のパルマンティエ夫人のサロンで、私のために歌ってくれるかな？
歌は…そう、この前聞きそこねた女神エリッサのアリアがいい」
なにかがじんわりと心を暖めてゆく。
微笑みながら喜んで、と答えると少年のような無邪気な笑顔を見せて、じゃあ早速ご主人さまのた めに
ひと働き、とつぶやくと彼は軽やかに部屋を出て行ったのだった。
それから数日後。
『ファウストの公演に期待の新星がヒロインとして再登場』
急病の危機を救ってくれたことに対するお礼として、わたくしが彼女の出演の機会を支配人たちに
掛け合ったという美談めいた記事が各新聞の芸術欄をまことしやかに飾ることになった。
支配人たちは歌姫の厚情に感激し、ダーエ嬢の出演を快諾したと締めくくられた記事を読みなが ら、
わたくしは苦笑をかみ殺していた。
伯爵サイドと支配人たちはこれで満足のはずだ。
問題は…約１名。
この茶番に彼が気づかないはずはない。いったいどうなるのか。
前奏曲がかき鳴らされた以上、幕は降ろせない。
レッスンに明け暮れていくうちに、その日はやってきた。
・・・・・・・・・・
開演前の楽屋は、さまざまなドラマが凝縮されている。
ぴんと張り詰めた空気の中、最後まで役作りに余念のない者、静かに「その時」を待つ者。
半ばパニックをおこしながらも、神に祈りを捧げる者…。
甘い薔薇の香りに埋もれながら、わたくしは鏡の前に座って、静かにこれから
はじまる舞台を頭の中で反芻していた。
聞こえぬ音楽が身の内に流れ、わたくしの中のマルグリートが徐々に目覚める。
『ただの美しくたおやかな乙女が、悲劇の中で侵しがたい気品を垣間見せる。
翼がその背にあらわれ、天使の合唱に導かれて天をゆく姿まで見えそうだった』
初めてマルグリートを演じたわたくしをそう表現したのは、めったなことでは役者を誉めな いことで有名な、とある評論家だった。
美しく慎み深いマルグリート。
恋したファウストに捨てられ、身ごもった子を殺す罪をおかしてしまうマルグリート。
悲しみと罪悪感から心が壊れてしまったマルグリート。
悪魔の誘惑にも、ファウストの懇願にも身を委ねず、神への祈りを口にしながら
牢の中で息絶えるマルグリート。
ふと彼女の…クリスティーヌ・ダーエの顔が脳裏を横切る。
美しくて儚げな少女が悪魔の思惑に翻弄されていく。
彼女のマルグリートは…もしかするとわたくし以上にマルグリートらしいかもしれない。
マルグリートと彼女が不思議に重なって…思わず髪が乱れるのも忘れて頭を強く振る。
今日の舞台に立つのはわたくし。
つかの間マルグリートとして生き、マルグリートとして死んでいくのはわたくしなのだから。
わずかながらも緊張に身体が支配されたのか、喉が渇きを覚える。
舞台前になるべく余分な水分は取らないようにしているのだが、仕方がない。
カトリーヌにお茶を入れてもらおうかと思った瞬間、ノックの音がしてドアが開いた。
湯気の立つお盆を持って入って来るのは…カトリーヌだ。
「どうしたの？」
「男爵さまのお使いから差し入れです。
喉によいハーブティだそうで。少しお口にあわないかもしれませんが、一口二口でいいから、
よろしければ舞台前にどうぞ、とのことです」
カップと共にお盆の上に乗せられていたのは、見覚えのあるピンクの薔薇とメッセージカー ド。
「美しくも手強き、私のマルグリートへ」
あまり上手ともいえないウィンクをしてみせる彼の顔が浮かんできて…
思わず顔がほころんでしまう。
気分が少し軽くなったのと喉が渇きを覚えていたこともあって、カップの中の液体を一気に
半分ほど飲み干してしまう。
舌に少し苦味を覚えたものの、甘くて優しい香りがすぐ口の中に広がってそれは気になる
ほどでもなく、身支度をもう一度かるく整えると、わたくしは部屋を出た。
廊下でふたりの少女が立っている。
片方の髪を整えてやっているのはメグ・ジリィだ。
ソレリ嬢に次ぐ実力を持つと誰もが認めるバレエダンサー。
あのマダム･ジリィの娘であるということを差し引いても、舞台での度胸の良さや
人懐こさは可愛らしく、マダム譲りのしっかりした性格もあわせて好感の持てる少女だ。
おっとりと立っていた片方は･･･クリスティーヌ・ダーエ。
わたくしの姿を認めるなり、メイクをしているのにそれとわかるほど肌がほんのりピンク色に染ま る。
蒼い瞳はまぶしいものでも見たかのように細められたかと思った瞬間、長い睫で伏せられてしまっ た。
「シニョーラ、今宵のご成功を！」
はきはきと声をかけたメグに、微笑みながら答える。
「あなたがたも、頑張ってね」
そのまま通り過ぎようとしたわたくしを呼び止める、か細い声がした。
「あのっ…」
クリスティーヌが、今にも失神しそうな形相で立っている。
横のメグも想像していなかったのだろう、大きな瞳をこぼれんばかりに開いて
傍らの親友を見つめている。
「あの…あの、わたし、シニョーラのご気分を害するようなことになって、
わたし…わたしなんかが…ごめんなさい…」
わたくしが手を近づけると、ぴくりと身を震わせる。
そのまま頬にそっと手をあてて見つめると、彼女は瑞々しく熟れた苺のように
真っ赤になってしまった。
「わたくしの気分をいちばん害するものは、なんだか知っているかしら？」
ふるふると首をふる。
「それは、自分を貶めたり卑下する気持ちよ。
仮にもわたくしの代役を務めたあなたが、“わたしなんかが”と言うのは
そのままわたくしを侮辱していることになるの」
真っ赤だった顔からすっと血の気がひき、蒼い瞳にみるみるうちに涙があふれる。
「舞台の前に泣くのはおよしなさい。
せっかくのメイクを崩して目を腫らしたまま舞台に上がるおつもり？」
一生懸命泣くまいとしているのだろうが、大きな瞳の中には今にもこぼれ落ちそうな
涙の漣（さざなみ）ができて･･･ああ、もうこの娘（こ）ったら！
衣装の袖口、柔らかな布の部分でそっと涙を吸い取ってやる。
「シニョーラ、衣装が･･･」
メグがあわてて口を挟む。
「いいのよ、これくらいならシミになるわけじゃなし。
さぁ、あなたもお友達くらいにどーんとお気楽に構えてみたらどう？
わたくしを蹴落としてやろうってくらいに思ってごらんなさいな」
メグが可愛く抗議の声を上げる。
「シニョーラひどぉーい、わたしそんなにお気楽じゃないです〜っ」
その声に思わずクリスティーヌも表情を崩し、くすくすと可愛らしい笑い声を上げる。
もう大丈夫ね、と鼻の先を人差し指でそっとつつくと、恥かしげにはにかんで見せた。
･･･確かに、わたくしが男だとしても放ってはおけないタイプではあるのだけど。
いかんせん、1人で世の荒波を･･･ましてやオペラ座という場所で働く何百のスタッフやダン サー、役者の
頂点にも近い場所に君臨する「歌姫」になど、今のままの彼女になれというほうが酷な気がしてし まう。
事を急がずに、辛抱強くゆっくりと時間をかけていけば…あるいは。
そんなことをもできなくなるほど、子爵の存在は彼を焦らせているのだろうか。
亡霊は･･･ファントムは彼女の中に何を見出し、何を求めようというのだろう。
そんなことを考えているうちに、いつのまにか舞台の袖まで来ていた。
まもなく２幕がひらく。
マルグリート…わたくしの登場だ。
学問ひとすじに生きてきたファウスト。
その一生への後悔が頂点に達したとき、彼は悪魔メフィストフェレスを召喚し魂とと引き換えに若 さを手に入れ、
人生をもう１度やり直す歓びに身をまかせる。
慎み深い村娘マルグリートは、兄ヴァランタンが戦で留守の間に、メフィストフェレスのお膳立て を得た
ファウストの誘惑にたやすく堕ちてしまう。
ファウストの贈った…実際には悪魔が用意した宝石に、若い乙女らしく心を奪われるマルグ リートが歌う「宝石の歌」。
宝石の横には、彼女に思いを寄せる若者・シーベルが摘んできた花もあるというのに。
慎ましやかな娘は気づいてしまうのだ･･･自分は「美しい」のだということに。
一度生まれてしまった「自尊心」はもう、消せはしない。
異性から愛の証に高価な物を贈られた晴れがましさに表情は輝き、美しい宝石で
身を飾るときめきや喜びがマルグリートの全身にあふれる。
わたしは美しい。
人々からも、あの方からも誉めそやされるほどに。
わたしは聞きたい。
あの方がこの姿を讃える賞賛の言葉を。
そして花ではなく宝石を手に取った瞬間から、彼女の悲劇が始まる…
観劇目的･･･というよりは社交目的に忙しい紳士淑女たちもわたくしが歌い始めると
桟敷のあちこちから身を乗り出すように舞台に集中をしてゆくのがわかる。
あぁ、鏡を見たら こんなに綺麗な私がいる…これはあなたなの、マルグリート？
これはあなたなの？
私に答えて･･･ はやく、はやく答えて！
「…そうだとも、力に驕るマルグリートよ」
ふいに耳元であまいささやきが聞こえて、わたくしは息を呑んだ。
いえ…いえ、あなたじゃないわ･･･もうあなたの姿じゃない
それは…
それは……？
周囲があっけに取られた表情をしているのが視界の端に映る。
自分だって信じられない。
この声が本当にわたくしの喉から…出てきたの？
いや、そんなはずはない。
どれだけ力んでも、声帯自体が力を失ったように、わたくし自身の声は一声だって出てやしないの だ。
喉から聞こえてくるのは、苦しげな呼吸の音だけ。
だというのに…この声！
あきらかにわたくしの周りから出ている、しゃがれたヒキガエルの鳴き声。
気が遠くなりかけるのを必死にこらえて、わたくしは舞台に立っていた。
いっそ気を失ってしまったほうが楽だったに違いない。
「これは･･･不幸な事故だよ、シニョーラ？
今ここで、あなたが気を失ったとしても、誰も咎めなどしない…楽になるがいい」
耳元でささやかれた、甘く柔らかく、不自然なほどに優しく響く声。
振り返ると、ぶつかりそうなほどすぐ後ろにメフィスト役のバリトンが立っていた。
表情を映さない、透き通るように白いフルフェイスのマスクからのぞく目･･･彼だ。
なにがなんでも倒れるわけにはいかない。
紙のように蒼ざめながらも、視線だけで殺せるならといわんばかりに
にらみつけていたわたくしをあざ笑うかのように肩をすくめると、
すっと指差した先に光るのは…天井で輝くシャンデリア。
叫んでいるわけでもないのに、凛とした声が舞台中に･･･いや劇場中に響き渡る。
「見よ、オペラ座はこの侮辱に身を震わせている！」
その声によって生命をふきこまれたかのように、シャンデリアが揺れる。
何が起きたのかわからないでいた観客も、前後左右に大きく揺れだしたシャンデリアをみて口々に ざわめきだした。
中にはいち早く出口へと向かう者も出だす。
「気をつけるがいい･･･ミューズは芸術に奢るものを決して許しはしない!!」
６トンという自らの重量を越えた動きに、シャンデリアはついに･･･耐えることを放棄し た。
身体に伝わる重い地響きと耳に飛び込んできた不自然に華やかな音。
固い床にいくつものシャンパングラスが砕け落ちるような･･･とぼんやり思いながら
わたくしもまた、意識を手放していた･･･。
NEXT・・・＜耳に響くはきみの歌声＞
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…お目汚しの創作部屋へ